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2014年11月20日木曜日

「夢を運ぶ鉄道画の巨匠 木村定男の世界」を見てきた


長岡市の栃尾美術館で開かれている「夢を運ぶ鉄道画の巨匠 木村定男の世界」を見てきました。
木村定男は生涯で2000点ともいわれる作品を描きましたが、そのほとんどが乗り物をテーマにしたものであり、絵本や図鑑に多くの作品が掲載されました。

館内での展示は一階と二階で分かれていました。一階では地元の鉄道写真家たちが撮影した数々の鉄道写真が展示されていました。当地栃尾を走っていた越後交通栃尾線、通称栃鉄(トッテツ)や越後交通長岡線、通称長鉄(チョウテツ)の在りし日の写真や只見線の除雪に奮戦するDD14など雪国らしい写真の数々。これらを見るためだけでも来る価値はあります。

二階では木村定男の作品が二つの展示室を使って展示されていました。展示室1では主に蒸気機関車の鉄道画が展示されています。戦前に製造された8600形や9600形からD51やC62など戦後復興期を支えた蒸機の画を間近で見ることができます。おそらく日本の蒸機の全形式の画を見られるのではないかと思います。明治の鉄道黎明期を描いた画も展示されていて、明治初年の新橋停車場の画は写真と見紛うばかりに精緻に描き込まれています。

展示室2では特急や新幹線の画が展示されています。EF58牽引特急つばめ、161系特急こだま、181系特急ときなどの高度経済成長期を支えた在来線特急。元祖新幹線0系や上越新幹線200系などの新幹線車両。子供の頃に絵本や図鑑で眺めて夢を膨らませた画に久しぶりに向かい合い、旧友にあったような気分になりました。

中でも寝台特急の画は写実的な画もあれば情感的な画もあり、寝台特急がもつ魅力を存分に描かれていました。「夢見るブルートレイン」のコーナーは見ているだけでブルートレインの旅に誘ってくれるようなコーナーになっています。

販売コーナーでは木村定男に関係する本やカレンダー、ポストカードなどが販売されています。
会期は11月24日(月)までとなっています。鉄道に興味がある方もない方も是非足を運んでもらいたい展示会でした。

2014年11月14日金曜日

ケンオー・ドットコムに寄稿しました

ケンオー・ドットコムに寄稿しました。

タイトルは「15日で上越新幹線、燕三条駅が開業32年、燕三条駅は三条?それとも燕?」で、開業から32年を迎える燕三条駅の設備関係について知られざる一面を紹介しています。

かなりマニアックな内容ですが、ご覧ください。

2014年4月6日日曜日

交通科学博物館閉館によせて

4月6日、大阪市にある交通科学博物館が52年の歴史に幕を下ろしました。
去る3月2日に訪問してきましたので、その時の写真をまとめて掲載します。

交通科学博物館の出入口。閉館を目前に特別仕様になっています。

屋外展示場も特別仕様に。

大宮の鉄道博物館と同様にこちらにも数多くの鉄道記念物が展示されていました。

7100形蒸気機関車「義経号」
1800形蒸気機関車
230形蒸気機関車
EF52形電気機関車
0系新幹線電車

準鉄道記念物ではこの二つ。
80系電車
キハ81形ディーゼル車

大型のジオラマも人気を集めていました。

車両のみならず信号の展示もされていました。


鉄道関係だけの展示にとどまらないのも交通科学博物館の魅力でした。


交通科学博物館は京都梅小路に新しく建設される「京都鉄道博物館」に生まれ変わります。そう、永久の別れではなく、ほんの少し、リフレッシュのためのおやすみ。
また会いましょう。

2012年7月3日火曜日

6月23日で東北新幹線が開業30周年、東北・上越新幹線の同時開業を阻んだ「最悪の山」、それは…

1982年6月23日、東北の人々の悲願を乗せて白地に緑のラインが鮮やかに彩られた新幹線が北へと走り始めた。あれから30年。2012年6月23日、東北新幹線が開業30周年を迎えた。1982年11月15日、東北新幹線の後を追う形で上越新幹線が開業した。実はこの2つの新幹線は同じ日に開業することが予定されていた。今回は幻に終わってしまった「東北・上越新幹線同時開業」にスポットを当ててみようと思う。

新幹線開業

東北・上越新幹線の開業から遡ること18年前の1964年10月1日。東京駅で盛大なセレモニーが開催されていた。東海道新幹線開業。日本初にして世界初の時速200キロ以上で走行する高速鉄道がこの日開業した。鉄道関係者、そして国民の期待と不安の中で走り始めた新幹線は、当初の不安を全て払拭する大成功を収めた。1975年には「ひかりは西へ」のキャッチコピーのもと、山陽新幹線が博多まで延伸、開業した。東京から西へ西へと伸びていった新幹線はその進路を北へと変える。

ひかりは北へ

1971年、「ひかりは北へ」のキャッチコピーのもと、東北・上越新幹線の工事が着工。当初の計画では1976年度の開業が目標とされた。しかし、中東情勢の悪化によるオイルショックが日本経済に高度経済成長の終焉という大打撃を与えた。新幹線の工事にもオイルショックの影響が影を落とし、建設費用の高騰という形でその姿をあらわすことになる。建設費用がかさむ中でも工事は進められた。

新幹線はまっすぐ進む

新幹線はその高速性ゆえ、なるべくカーブを少なくし直線であることが求められる。新幹線は、古くに建設された東海道新幹線ではカーブの半径が2500m以上、山陽新幹線以後に建設された新幹線では半径4000m以上とされている。道路と比較してみると、時速60キロ制限の一般道路ではカーブの半径が150m以上、時速100キロ制限の高速道路では半径460m以上と定められている。この点を見ただけでも新幹線がどれほど厳しい条件の中で建設されたかわかっていただけると思う。この厳しい条件が上越新幹線の建設の前に立ちはだかることになる。

東京と新潟の間には越後山脈を始めとする山々がそびえ立ち、なるべく直線でつなげようとするとどうしてもトンネルが多くなってしまうのである。結論を先に言うと、この山々が東北・上越新幹線の同時開業を阻んだのである。

世界一のトンネル

数ある上越新幹線のトンネルの中でも一番有名なのが上毛高原駅と越後湯沢駅の間の谷川岳を貫く大清水(だいしみず)トンネルだろう。全長22,221mのこのトンネルは貫通当時、世界一の長さを誇った。海底トンネルを除いた山岳トンネルとしては2000年に東北新幹線の一戸トンネルが開通するまでその座を守り通した世界有数のトンネルである。

谷川岳を貫くトンネルは上越線の清水トンネル(全長9,702m、開通1931年)、新清水トンネル(全長13,490m、開通1967年)に続き3本目となった。谷川岳の地質は「閃緑岩(せんりょくがん)」と呼ばれる硬い地質で、軟弱な地質に比べてトンネル工事がしやすいとされていたが、新清水トンネル建設工事の際には「山ハネ」といわれる現象に悩まされた。「山ハネ」とは、トンネルの上にそびえる谷川岳の重量による圧力でトンネルの壁面から硬い岩盤が剥離して飛んでくる現象である。

大清水トンネルは新清水トンネルよりもさらに深く、さらに長くなったため、谷川岳の圧力をより強く受けることになった。さらに湧き水の噴出も重なり工事は難渋を極めた。そして大清水トンネル建設の上で最悪の事態となった火災事故が起こってしまう。

1979年3月20日、貫通直後のトンネル内で掘削機械の解体作業が進められている中、保登野沢(ほどのさわ)工区で火災が発生。16名もの尊い犠牲を出してしまった。大清水トンネル建設工事での犠牲になった92名を祀った慰霊碑が湯沢町の保登野沢工区の坑口の入口近くに安置されている。こうした苦難を乗り越えて世界一のトンネルは完成したのである。

こうして見ると同時開業を阻んだのはこの大清水トンネルかと思われるかもしれないが、同時開業を阻んだのはこのトンネルではない。上越新幹線建設には「最悪の山」が待ち構えていたのである。

最悪の山

中山トンネル。これが最悪の山と悪戦苦闘した末に建設された日本のトンネル建設史上に残るトンネルの名前である。

全長14,857m。新潟から新幹線に乗車した場合、上毛高原駅を発車してすぐにこのトンネルの入り口が口を開けている。トンネルに入ってからしばらくすると新幹線はブレーキをかけて減速し始める。もちろん駅が近づいてきて停車するために減速しているわけではない。

しばらく減速が続いた後、新幹線の車体が右に傾き始める。しばらくするとその傾きが収まり、新幹線は再度、加速をはじめる。何故このようなことが起こるのか。それはこのトンネルの中に新幹線としては異例の急カーブがあるからである。

先に新幹線のカーブは半径が4000m以上で建設されていると述べたが、この中山トンネルには半径1500mの新幹線の規格から外れた急カーブが存在しているのだ。時速240キロで駆け抜ける新幹線がこのトンネルでは急カーブを曲がるために時速160キロまで減速を強いられる。

中山トンネルは、1972年に着工している。着工前の準備期間はわずか10ヶ月とあまりにも短い。工事前の地質調査もそこそこに工事が始まってしまった。この一点を見ただけでもいかに新幹線の建設が急がれていたかがわかる。

1972年着工というのは上越新幹線の数々のトンネルの中でも最初期の着工である。最初に掘り始めたトンネルが最後まで残ってしまったのである。結果論になってしまうが、事前に十分な地質調査が行われていたら、ここまでの難工事にはならなかったかもしれない。

中山トンネルは子持山(こもちやま)と小野子山(おのこやま)という山を貫く形で建設されている。掘削が始まってから判明したことであるが、この山は山の中に地下水を満々と湛えた巨大な水がめのようになっていたのである。掘削したその先から地下水が溢れだして止まらない。地下水を抜く作業や水が噴き出さないようにトンネル内部を固める作業など、さまざまな対策が取られた。それでも大きな出水事故が2回も起きてしまったのである。

最初の大きな出水事故は1979年3月18日に四方木(しほうぎ)工区というところで起こった。21時40分頃、毎分2トン程度だった湧水が突然、毎分80トンという濁流へと変わった。毎分80トン、つまり1秒間に1.3トンもの水が溢れだしてきたのである。一般的なバスタブの容量が180リットルであるから、一秒間にバスタブにして約7.5杯分もの水の量である。ただちに対策が取られたが出水量の方が勝り、トンネル内の変電施設まで浸水してしまった。

これにより地上に脱出するためのエレベータが停止してしまい、作業員はエレベータで迫りくる水の恐怖に怯えながら救助を待った。出水から約2時間後、地上からの送電が復帰。エレベータが動き出した。作業員はまさに九死に一生を得る状態であった。この出水事故で四方木工区は水没。復旧までに半年を要することになる。

この出水事故により四方木工区が出水の危険性がかなり高い工区であることが再認識されることになる。ここで鉄建公団総裁仁杉巌(のちの第9代国鉄総裁)は重大な決断を下す。「トンネル本坑を曲げる」。着工後にトンネル本坑のルートを変更することは前代未聞のことであったが、本坑工事がなかなか進んでいないことや東北新幹線との同時開業にこれ以上の工事の遅れが許されない状況になっていることから速やかに変更の手続きが取られた。

この時のルート変更では比較的地質が良好な東側に約86mずらしたルートが採用された。このルートはカーブの半径が4000mに設定され、速度制限を受けないルートであった。ここで「あれ?」と思われた方もいるのではないかと思う。中山トンネルには半径1500mの急カーブがあると述べた。そう、このルートは幻のルートとなってしまったのである。

ルート変更決定後、各工区では出水時この遅れを取り返すべく急ピッチで作業が進められていた。作業のための迂回坑の掘削が進められ、隣接した高山工区とつながり、本坑の掘削作業がようやく出来るとなった時に悪夢が再び訪れた。

1980年3月7日、またしても四方木工区で毎分40トンの異常出水が発生、前回の出水とは違い隣接する高山工区と迂回坑でつながっていたためそちらへも水が流れこんでいった。出水からしばらくは両工区に設置されたポンプの処理能力の範囲内であったため水没は免れていたが、3月9日にトンネル内で地盤の崩壊が起こり出水量は毎分110トンに増加。ポンプの処理能力を超えた湧き水は四方木工区と高山工区を満たしていった。2つの工区は完全に水没。前回の異常出水から1年、四方木工区の工事再開からわずか半年での悪夢に工事関係者の落胆は計り知れないものがあった。この時、東北新幹線と上越新幹線の同時開業は夢と消えた。

ここに至って鉄建公団総裁仁杉巌は再度、決断を迫られることになる。東北新幹線の開業は1982年6月23日と決定している。上越新幹線の開業が大きく遅れるわけには行かない。しかし、このままではトンネルの開通すらおぼつかない。ここでくだされた決断は次のようなものである。1.東側に曲げたルートをさらに東へ約80m移し、出水地帯を回避する。2.上越新幹線の開業は半年遅らせる。これにより中山トンネルには速度制限時速160キロのカーブの半径が1,500mという急カーブがあらわれ、永遠にその傷跡を残すことになった。

中山トンネルについて概要を述べるつもりだったが、それでもこれほど長い記述になってしまった。それほど上越新幹線での中山トンネルの存在が大きいものであると思っていただければ幸いである。なお、中山トンネルに関する記述の多くは『上越新幹線物語1979―中山トンネルスピードダウンの謎』(交通新聞社新書)によるものが大きい。この本は当時、鉄建公団でトンネル工事の指揮を執っていた北川修三氏によって書かれたもので、中山トンネル建設工事での悪戦苦闘、開通にかける情熱が詳細に書き込まれている。上越新幹線に興味をお持ちの方にはぜひ読んでいただきたい一冊である。

1982年6月23日、東北新幹線開業。それから遅れること半年。1982年11月15日、上越新幹線が無事開業した。今年で開業30周年。同時開業の夢はかなわなかったものの、2つの新幹線は東日本の発展に大きく貢献することになる。この2つの新幹線の開業に血と汗と涙を流しながら働いた人たちがいたことを少しでも知っていただければ幸いである。

(2012.7.3 藤井大輔&芳輔の鉄道コラム「鐵道双見」に投稿した内容を掲載)

2012年3月17日土曜日

引退列車の撮影

昨夜、東三条駅で急行きたぐにを見送った時に思ったこと。フラッシュ撮影をしている人はコンデジで撮影している場合がかなり多く見受けられた。たぶん鉄道ファンではなく、ラストランと聞き、最後の見納めに来た方が多かったのではないかと思う。

ラストランを撮影したいと思って駅にやってくるのは全く悪いことだと思わないし、むしろ昔乗った列車の引退を見たいと思うのは当然だろう。しかし、夜間走行する列車に向けて、フラッシュ撮影するのはフラッシュの強烈な光は運転士の視界を奪ってしまう危険なことだ。

フラッシュ撮影の危険性は、たとえば夜に車を運転していて道端からフラッシュを焚かれたらどうだろうか?目が眩んで運転できなくなるだろう。この危険性があまり意識されていないというのが現状だと思う。鉄道ファンはそういった知識を持っているため、普通はフラッシュ撮影をしない。 

しかし、普通の人はそんなことは知らないのだ。ここらへんに鉄道ファンと普通の人との差というか、軋轢を生んでしまう原因が潜んでいるように思う。フラッシュ撮影はいけないこと。しかしそれを抑えようと罵声を浴びせかけるのはいいことなのだろうか? 

かといって、私の良策があるわけでもない。ここらへんがもどかしいところ。鉄道会社に対策を求めるのもなにか違うように思うし、撮影地で鉄道ファンが「フラッシュ撮影はやめましょー」といったところで、ただの怪しい人間に見られていうことは聞いてくれないかもしれない。 

結局、「なんとかならんかなぁ」と思っているだけで何も行動できないヘタレですみませんね、という話。 

鉄道ファンの「常識」と一般人の「常識」は、全く違う。これはちゃんと認識しないといかんと思う。

(Twitterでのつぶやきをまとめたものです)

2011年11月27日日曜日

寝台特急[日本海]廃止の報に触れて

2011年11月18日、読売新聞のWeb版で「ブルートレイン・日本海、来春ダイヤ改正で引退」という記事が掲載されました。寝台特急[日本海]は1968年10月に急行から特急列車となり、以来43年にわたり大阪と青森を走り続けてきました。[日本海]はブルートレインブームの中にあっても、日本海側を走るということでどちらかと言うと目立たない存在だったと思います。しかし、一時は2往復体制、函館駅乗り入れと人気を博したこともありました。

近年続く寝台特急の廃止。[日本海]廃止の知らせを聞いた鉄道ファンの多くは「とうとうこの時が来てしまったか」という思いを抱いたことだと思います。かく言う私もその一人でした。

廃止の要因として利用客の減少と車体の老朽化が挙げられていましたが、車体の老朽化が一番の要因だったと思います。国鉄時代に製造された車両は車体も痛み、内装も陳腐化していました。
老体に鞭打つように走る姿は痛々しささえ感じました。いくら寝台があるとはいえ、シャワーもないような設備では客足も遠のいてしまいます。かといって車両を新造するには多くの費用がかかります。そう遠くない将来に廃止されることは明白なものになっていました。

東京と高松・出雲市を結んでいる[サンライズ瀬戸・出雲]は、機関車が牽引する客車からビジネス客に特化した電車による寝台特急へと変貌しました。上野と札幌を結ぶ[カシオペア]はリゾート列車として運転されています。ビジネスかリゾートか。[日本海]はその流れに対応することができませんでした。上野と青森を結ぶ[あけぼの]や大阪と新潟を結ぶ[きたぐに]もそう遠くない将来[日本海]と同じ道を歩むことと思います。

列車が走りだしてから駅弁を開け、ビールを飲み干す。
車窓を彩る夜景。ほろ酔い気分の中で昔話。
まさに至福の時間。
新幹線の快適さとはまたちがった「旅情」というものがそこにはありました。

芭蕉の句の本歌取りで一句。
日本海 佐渡に横たふ 天の川

またひとつ新潟の鉄路を彩った列車の終焉が近づいています。

200系の東北新幹線撤退に寄せて

2011年11月18日、東北新幹線で開業以来29年にわたり走り続けてきた200系が定期運用から離脱しました。
翌日のダイヤ改正で最新鋭のE5系が3本増備されて「はやて」や「やまびこ」としても走るようになり、E2系が200系が担ってきた役割を果たすこととなりました。これで200系は上越新幹線のみでの運用となります。ちなみに定期運用から離脱というだけで、臨時列車やイベント列車で200系が東北新幹線を走ることがあるかもしれません。

新鋭の車両が登場して古参の車両は引退していく。

これは常日頃から各地で起こっていることですが、こと200系のこととなると思いが溢れてきてしまいます。1980年代に生まれた私にとってグリーンラインの200系は東京にむかう「夢の超特急」でした。おそらく東北新幹線の沿線にも私と同じような思いを持っている方がいると思います。
その方々がもう200系の車窓から故郷の姿を見ることができなくなると思うと万感胸に迫るものがあります。傷ついた故郷を変わらず駆け抜けていく200系は、希望の象徴であったのではないかと思います。

200系は東北の復興を支える途半ばでその役割を後進たちに託しました。

2012年6月23日、東北新幹線開業30周年の記念すべきその日に再び200系が復興しつつある東北を走ることを祈っています。

2011年11月16日水曜日

新潟駅に来ないもの


新潟県内の駅で一番大きな駅。いわずもがな、それは新潟駅です。
1日平均の乗車人員は36,269人(2010年度)。本州日本海側の駅では最多。JR東日本管内の駅では第116位。東日本管内では東京近郊区間内を除けば仙台駅に次いで2番目の乗車人員です。
上越新幹線、信越本線、越後線、白新線が乗り入れ、特急も数多く発車しています。

その新潟駅に来ない列車があります。それはなんでしょう?

寝台特急と思った方、当たりです!
平成8年に寝台特急つるぎ(大阪~新潟)が廃止されて新潟駅に乗り入れる寝台特急は消滅しました。余談ですが、つるぎとおなじく大阪と新潟を結ぶ急行きたぐには今も健在です。
新潟県内を走る寝台特急は、日本海、あけぼの、トワイライトエクスプレスがありますが、それらは全て新津駅から新発田駅の羽越本線を走り、新潟駅に乗り入れることはありません。

実はもう一つ新潟駅に来ない列車があります。(このことに今更ながら気がついてこの記事を書いています)

新潟駅には貨物列車が来ません。

待てど暮らせど一本も来ません。

それはなぜか?こちらの地図をご覧ください。
新潟駅の周辺地図

新潟の貨物ターミナルに新潟貨物ターミナル駅という駅があります。この駅は東新潟駅に隣接しています。
地図では右側に東新潟駅と新潟貨物ターミナルという文字が見えると思います。
赤枠で囲んでいるのが上沼垂信号場です。
新潟駅は左上の隅にあります。
ここがポイントです。

東京や大阪から新潟を目指してきた貨物列車は越後石山駅を通過したあとに今まで走ってきた信越本線から上沼垂信号場で白新線へと入り、新潟貨物ターミナル駅へ向かいます。逆に新潟貨物ターミナル駅から東京や大阪を目指す貨物列車は上沼垂信号場から信越本線へ入って行きます。(赤矢印で示した動き)
新潟貨物ターミナル駅から秋田や札幌を目指す貨物列車もありますが、当然ながら新潟貨物ターミナル駅から白新線へと入り新発田駅へと走って行きます。
この時、新潟駅は全くルートに関わっていません。

新潟県内を走る貨物列車は数多くあります。新潟市内でもその姿を頻繁に見ることができます。
しかし県下最大、いや日本海側最大のターミナル駅である新潟駅には一本たりとて貨物列車が来ないのです。
新潟県内の大きな駅では必ずといっていいほど貨物列車が停車、もしくは通過していきますが、新潟駅では姿を見ることすらできない。このことに今更ながら気がついて、記事を書いた次第です。

2011年11月15日火曜日

上越新幹線開業29周年

29年前の11月15日6時35分、大宮駅から上越新幹線下り一番列車とき301号が発車した。その10分後の6時45分、新潟駅で上り一番列車あさひ190号が発車した。上越新幹線開業の日。当初の予定では東北新幹線と同日に開業する予定だったが、中山トンネルの工事の遅れなどで5ヶ月遅れでの開業となった。29年経った今でも日本海側を走る新幹線は上越新幹線だけである。

キャッチコピーは「ひかりは北へ」。新幹線車両は青であるという既成概念を覆す緑のラインの200系電車にはスノープラウ、雪切室、ボディーマウント構造などの豪雪地帯を走行する車両ならではの工夫が施された。車体の工夫以外にも消雪用のスプリンクラーが設置され、特急ときの時代にさんざん悩まされた豪雪を克服した。

上越新幹線の開業当初は速達タイプが「あさひ」、各駅停車タイプが「とき」という愛称だったが、今では越後湯沢までの「たにがわ」と新潟までの「とき」という体制に変わっている。「とき」という愛称は長らく上野~新潟間を走る特急の愛称として親しまれてきたが、「あさひ」という愛称は仙台~新潟間を走る急行の愛称であり、新幹線の愛称として採用されたのは、まさに大抜擢というものであった。

鉄道ファンに知られたトリビアで、「上越新幹線は全線開業していない。」というものがある。上越新幹線の計画上の起点は東京駅ではなく新宿駅であり、大宮駅から新宿へと向かうのが本来のルートであった。今も新宿駅の地下には新幹線が乗り入れるための用地が残されている。2015年の北陸新幹線(長野~金沢)の開業、2016年の北海道新幹線(新青森~新函館)の開業と東京~大宮間の輸送量が逼迫することは明白ではあるが、新宿駅延伸という「切り札」は未だに切られていない。

上越新幹線は来年30周年の節目の年を迎える。東北新幹線ではまもなく200系が姿を消すが、上越新幹線では30周年を迎える日まで元気に走ってくれているだろう。

上越新幹線の建設では90名以上の方が殉職している。一番犠牲が多かった大清水トンネル保登野沢(ほどのさわ)工区での火災事故では18名の方が亡くなっている。大清水トンネル湯沢口の程近くの城平墓園にある慰霊碑にはこのように刻まれている。

上越新幹線工事は 上越の産業文化の振興をはかるため国の一大事業として昭和四十六年十一月に工を起し ここにその完成をみた
私どもは その間にあって尊い生命を捧げられ 偉業達成の礎となられたかたがたのことを忘れることができない
ここにそれらのかたがたの霊を慰めるため 大清水トンネル湯沢口を鎮魂の地と定め この碑を建立する
御霊よ
ねがわくば 永遠に安らかに鎮まりたまわらんことを
昭和五十七年十月
上越新幹線
建設工事関係者一同

2011年11月14日月曜日

貨物新幹線

貨物輸送の未来を変える「貨物新幹線」計画とは?
こんな記事を見つけました。
ということで、Twitterで知ったこの記事について私なりに補足説明をします。この記事に書かれているのは新青森から先へと延伸する北海道新幹線のことについてです。「貨物新幹線」という文字に違和感を覚える人もいるかと思いますが、実は東海道新幹線でも貨物列車を走行させる計画がありました。

東海道新幹線の建設にあたり建設費の捻出に困った国鉄は世界銀行からお金を借りることにしました。当時の世界の常識では「高規格鉄道で旅客輸送」というのは、「え?コイツ何いってんの?」状態だったのです。モータリゼーションがまさに勃興しつつある時で「移動は自動車だろ。急ぐ時は飛行機な。」というのが世界の常識で、鉄道は旅客輸送は激減、貨物輸送だけに頼る斜陽産業になり果てていたのです。
そんな状況の中で「旅客輸送用の高規格鉄道を建設するからお金ちょーだい!」と言っても「日本はアホなの?バカなの?」と言われるのがオチでした。そこで考えられたのが「いやいや、昼は旅客、夜は貨物を運ぶ高規格鉄道だから!」という苦肉の案だったわけです。
なんとか世界銀行からお金を借りることができ建設に着手するものの、実用性を疑問視する声は多く、鉄道ファンで知られる作家の阿川弘之氏からも「ピラミッド、万里の長城、戦艦大和に匹敵するバカ事業」と揶揄されていたわけです。
東海道新幹線が開業しても新幹線に貨物列車が走ることはありませんでした。そもそも先ほどの「貨物も走らせる」という話は世界銀行からお金を借りるための方便。つまり、嘘だったのです。一応格好だけはつけるために貨物駅へ分岐する用地が確保されていて、今もそのルートを確認することができます。

ちなみにこの時の貨物新幹線計画は、巡り巡って東京と大阪を結ぶ世界初の「貨物電車」M250系「スーパーレールカーゴ」へとつながっていくのですが、それはまた別の話。

日本の新幹線の成功は世界の常識を変えました。モータリゼーションは進みましたが、自動車と飛行機との二極化になくことはなく、近距離は自動車、中距離は鉄道、遠距離は飛行機、そしてそれぞれが相互に補完しあうという形が交通の常識になりつつあります。

2011年11月9日水曜日

プロ野球と鉄道

鉄道会社とプロ野球について簡単にまとめます。
大手私鉄15社プラスαで。

【現在も球団を保有】
阪神(1935~)
大阪タイガース→阪神軍→大阪タイガース→阪神タイガース
職業野球時代から存在する名門球団。現存する球団としては巨人に続き二番目に古い球団であり、本拠地となっている球場が変わっていない唯一の球団である。
2005年に阪神と阪急が経営した時に球団名の変更が取りざたされたが、阪急阪神タイガースになることはなかった。
阪神電鉄は営業キロが48.9キロと大手私鉄の中では相鉄の次に短い。

西武(1979~)
西武ライオンズ→埼玉西武ライオンズ
1979年にクラウンガスライターから西武が経営権を譲り受けた。森監督時代には「常勝西武」と言われる黄金時代を築いた。
チームカラーはスカイブルーだが、西武鉄道といえばやっぱり黄色でしょ。

【過去に球団を保有】
阪急(1936~1988)
阪急軍→阪急ベアーズ→阪急ブレーブス
阪神と同様に戦前の職業野球の頃から球団を保有していた。なお阪急はこれ以前(1924〜1929)に宝塚運動協会というプロ野球チームを保有していたというから日本最古の鉄道会社によるプロ野球チームは阪急であるといえる。
1975年から77年まで3年連続日本一という黄金時代を築いた。
1988年10月19日、世に言う「10.19決戦」ロッテ対近鉄のダブルヘッダーが川崎球場で行われいた同日にオリエントリースへの球団譲渡が発表された。戦前から続く名門球団阪急の身売りは関西を中心に大きな衝撃を与えた。
譲渡後のオリックスブルーウェーブは2004年に鉄道会社が経営する近鉄バファローズと合併したというのも奇妙な縁を感じる。

南海(1938~1944、1947~1988)
南海軍、南海ホークス
大阪球場を本拠地とした正真正銘の大阪の球団(阪神の甲子園球場は兵庫県尼崎市、阪急の西宮球場は兵庫県西宮市)。大阪球場は歓楽地ミナミのど真ん中にあり一杯引っ掛けてきたオッサンがドギツい野次を飛ばす「野次の聖地」としても知られた。ホークスが九州へと移転した今も大阪の下町には南海時代を懐かしむオッサンが多いらしい。
1988年は南海と阪急という関西を本拠地とする2球団が身売りされた激動の年であった。

西鉄(1943、1950~1972)
西鉄軍、西鉄クリッパーズ→西鉄ライオンズ
西鉄も戦前の職業野球時代からプロ野球に関わっていた。戦争による中断を経て、1950年から九州を本拠地とする唯一の球団として22年間存続した。西鉄が球団経営を離れたあとは太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと短期間に保有会社が変わっていったが、1979年に西武鉄道が球団を保有して落ち着いた。しかし西武ライオンズは所沢へと本拠地を移し、1989年にダイエーホークスがやってくるまで九州を本拠地とする球団は姿を消すことになった。

東急(1947~1972)
東急フライヤーズ→急映フライヤーズ→東急フライヤーズ→東映フライヤーズ
「東急」の名前がついていた期間が短いので印象は薄い。東映フライヤーズへと名前が変わったあとも、球団保有が東急、球団運営が東映という体制が続いた。東映の創業者で名物オーナーとして名を馳せた大川博は旧中之口村の出身。

近鉄(1949~2004)
近鉄パールス→近鉄バファロー→近鉄バファローズ→大阪近鉄バファローズ
55年に渡る長い歴史を持ちながらついに日本一になることはなかった。1989年の日本シリーズでは巨人相手に三連勝するものの、その後四連敗して日本一を逃した。2004年のオリックスとの合併騒動は記憶に新しい。この騒動の結果、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生した。
近畿日本鉄道は総営業距離が日本一長い私鉄。2位は東武鉄道。3位は名古屋鉄道と続く。

国鉄(1950~1965)
国鉄スワローズ
球団名は国鉄最高の特急と謳われた特急つばめ(現九州新幹線)から来ている。設立初年に入団したのが「400勝投手」金田正一。65年に経営権が国鉄から産経新聞に移ると同時に金田も巨人へと移籍していった。
なお、国鉄は公社であったため直接球団を経営することは出来ず、いろいろややこしいことをしていた。

名鉄(1951~1953)
名古屋ドラゴンズ
今回調べていてはじめて名鉄が球団を保有していたことを知った。名鉄が経営に加わったことで、中日ドラゴンズから名古屋ドラゴンズに改称。もともと経営権を持っていた中日新聞と隔年で球団を経営していた。53年に名鉄が経営を離れると、元の中日ドラゴンズに再改称。その直後の54年に初の日本一になっているあたり、名鉄の不運を感じる。

【保有の話があったり】
京急(2011)
横浜ベイスターズの売却の話が出たときに名乗りをあげる。久しぶりに鉄道会社が球団を保有するか?それも京急が!?と鉄道ファンが色めき立ったが、結局譲渡先はDeNAに。京急ダァシエリェスや京急ドレミファインバーターズなど、ライブドアジェンキンスを彷彿とさせる盛り上がりを見せた。

【保有したことがない】
東武、京成、京王、小田急、相鉄、京阪、東京メトロ
こうして見ると意外なのが東武。関東私鉄の雄でありながら球団を保有したことがない。まあ、それほど資金が潤沢な会社でもないし、貧乏性な東武らしくもある。
最後に東京メトロを加えたが、最近民営化したばかりで私鉄に含めていいのか悩ましいところ。もしかしたらヤクルトスワローズから東京メトロスワローズに、なんてことがあるのかも。


簡単にまとめようと思ったらこんなに長くなってしまった。
それだけプロ野球と鉄道の関係は深いということか。
(正確じゃない部分もありますが、ご容赦ください。)

2011年11月2日水曜日

中山トンネル序論

今日ちょっとTwitterでつぶやいた中山トンネルについて。
このトンネルは上越新幹線の高崎と上毛高原の間にあります。駅間には二本トンネルがありますが、上毛高原寄りにあるのが中山トンネル、高崎寄りにあるのが榛名トンネルです。
この中山トンネル、なにが特殊かというと、難工事中の難工事だったのです。
お陰で新幹線の規格外の半径1500mという急カーブと160キロ制限という新幹線にあるまじき状態になっています。

でも、みなさんはこの中山トンネルの存在を知っていました?
トンネルの中では減速していることがわかりにくいため、そんなことは気にせず通過している人が多いと思います。

はい、次からは気にしていただきましょう!
中山トンネルの急カーブを実感できる方法をお教えします!


  1. まず新幹線に乗り込みます。この時、二階建て車両の一階の席であるとなお良いです。
  2. 座席は必ず進行方向むかって右側の窓側の席に座ってください。ダメだったときは仕方が無いのでデッキにしましょう。
  3. 中山トンネルの位置を覚えておきましょう。東京に行く時には上毛高原駅を出てすぐのトンネル、新潟に行く時には高崎駅を出て二本目のトンネルです。
  4. 中山トンネルに入ったら窓の外をジッと見続けてください。レールが見えます。そのレールの位置を覚えておきましょう。
  5. しばらくすると不思議なことに見えていたレールの位置が変化していきます。東京に向かうときには一度レールが下に下がったように見え、次に上に上がったように見え、それからまた下に下がったように見えて、最後に元の位置にレールが戻ってくるように見えます。新潟に向かっているときにはこれと逆の現象が起こります。
  6. この不思議な現象を見た時、あなたは中山トンネルの急カーブを体験したことになります。

なぜこのようなことになるかの解説は「中山トンネル本論」をお待ちください。
決して今日はもう書くのが面倒になったわけではございませんので、そのへんのご理解とご協力のほど宜しくお願い致します。

2011年10月31日月曜日

駅の定義、そして弥彦線

少し前に知人と話をしたときにこんな話題が出ました。
知人曰く、
「昔、弥彦線が高架になる前は市内の踏切でよく渋滞ができたたじゃん。それについて調べろって言われて調べたんだけどさ。東京だと駅に電車が止まっている時には駅の近くの踏切が鳴らないけど、北三条駅に電車が止まっている時には近くの踏切は鳴っている。なんでそうなるのか聞いたら、駅ならできるけど、北三条は駅じゃないからダメなんだ、って言われたんだ。これはどういうことかわかる?」

「わかりません!」

ということで駅の定義について調べて見ました。
鉄道関係の技術基準に「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」というものがあります。これによると停車場というのは、「駅、信号場及び操車場をいう。」と定義付けられています。では、駅はどうかというと「旅客の乗降又は貨物の積卸しを行うために使用される場所をいう。」となっています。ん?じゃあ北三条駅は駅じゃないかということになりますが、実はもう一つ用語があります。

停車場と似ていますが、「停留所」というものがあります。停留所の定義は「停車場のうちで、場内信号機・出発信号機を設けていないものをいう。」というものです。北三条駅には場内信号機や出発信号機はありません。なので北三条駅は駅ではなく停留所であるということになります。じゃあ、北三条駅じゃなくて北三条停留所って名前にしろよ!って声が聞こえてきそうですが、
一応駅ですし、ややこしくなるのでそういうもんだと思ってください。

定義はここまでとして、先述の通り、北三条駅は「駅」ではなく、「停留所」であるため、場内信号や出発信号がありません。ということは、北三条駅に停車している列車は信号によって出発が制御されておらず、車掌の判断で出発することになります。駅周辺の踏切は「列車がいつ来るかわからない」状態となるため、警報を鳴らし、遮断器を降ろさなければ鳴らなくなります。
北三条駅。場内に信号はありません。

東三条駅のように出発信号がある駅では、出発信号が進行にならないと駅から動くことができないため、駅周辺の踏切は鳴らさなくても良いのです。駅構内の出発信号が変わったときに、駅周辺の踏切が鳴り始めます。
余談ですが、運転士が「出発進行!」というのは、「出発」信号が「進行」になっているからで、出発進行の他に「出発注意」や「出発警戒」などの喚呼があります。
こちらは新津駅。写真の奥に信号群があります。全て赤信号(停止)となっているのでここから先に列車が進むことができない状態になっています。

弥彦線の燕三条~東三条間が高架化されたのが今から15年前の平成8年。高架化の是非はひとまず置いて、弥彦線の踏切で待たされることがすっかりなくなった三条の街。その街の様子を高架の弥彦線の車窓から眺めるのもまた一興かと思います。

2011年5月2日月曜日

越後大回り(三条駅発)

えちごツーデーパスという便利なきっぷがあります。
これを使って新潟県内をぐるりと廻ることができます。
三条駅を起点とするとこんな感じです。


三条7:59-(1730M)-9:26六日町
六日町9:44-(830M)-10:56犀潟
犀潟11:00-(1333M)-11:35柏崎
柏崎12:12-(147M)-13:22吉田
吉田13:34-(149M)-1435新潟
新潟14:40-(653M)-15:20新発田
新発田15:56-(130D)-16:24新津
新津16:31-(444M)-17:03三条

見事に8時出勤、17時退勤のスケジュールです。
柏崎で昼飯がちゃんと確保できるかがポイントになります。
弥彦線を使ってもっと遠回りができるけど、ちゃんとした円を描くならこのルートかなと思います。

2010年11月16日火曜日

2015年の新潟駅予想図


今日はちょっと未来予想図を。

2015年、新潟駅。

この日、新潟駅では新駅舎の竣工記念式典が行われていた。
在来線ホームは地平ホームから全て高架ホームへと移行し、白新線のホームは新幹線と隣り合い、村上・酒田方面からの乗客の利便性が向上している。
立体交差が完成したことにより、駅南北の行き来が格段にしやすくなった。

記念式典の最中に東京行きの上越新幹線が発車していく。
車両はE2系。登場以来、東北新幹線で活躍してきたが、E5系の登場によってその住処を新潟へと変えていた。
帯の色もツツジ色からトキ色へと変更されている。

2011年の東北新幹線新青森延伸、2014年の北陸新幹線金沢延伸で上越新幹線を取り巻く環境が激変していた。
0系を彷彿とさせる「丸鼻の新幹線」200系は既に引退し、「Max」のさきがけとなったE1系ももうすでにいない。
新潟と東京を結ぶ新幹線はE2系とE4系のみとなっていた。
また、昔から問題視されていた大宮~東京間の線路容量は限界に達し、上越新幹線は東京駅への乗り入れを縮小され、大宮始発、高崎始発が設定されるようになった。
当初計画通りの大宮駅から新宿駅への延伸も長年検討されているが、まだ実現には至っていない。

在来線ホームの様子もかつてとは大きく変わっている。
長年新潟県民の足として走り続けてきた115系、485系などの「国鉄型車両」の姿を見ることはもう出来ない。
115系の代わりに新製のE129系が普通列車として活躍している。
新潟では比較的新型車両であったE127系は弥彦線・上越線などに活躍の場をうつし、新潟駅で姿を見ることは少なくなっている。

特急「いなほ」「北越」、快速「くびき野」で日本海縦貫線を南北に走り続けてきた485系も姿を消し、今では常磐線で「フレッシュひたち」として活躍していたE653系が県内の特急網の主役となっている。

夜の鉄路も大きく様変わりしていた。
利用率が落ち込んでいた上野発金沢行の寝台特急「北陸」急行「能登」が廃止。
続けて東北新幹線の新青森延伸により「あけぼの」が廃止。
これにより隆盛を極めた上野発青森行の列車は全て廃止された。
長年583系で運転されていた急行「きたぐに」も廃止。
寝台特急「日本海」も日本海縦貫線最後のブルートレインとして走り続けたが、2014年3月のダイヤ改正をもって廃止となった。
運転最終日には鉄道ファンだけでなく、思い入れのある人々が最後のお別れに訪れた。
こうして新潟県内を走る夜行列車は「トワイライトエクスプレス」と長期休暇に運転される「ムーンライトえちご」のみとなった。

時を同じくして貨物列車の牽引機もEF81からEF510へ、EF64からEH200へと世代交代されていった。

2009年2月26日木曜日

九州・山陽直通新幹線の愛称決定

JR西日本、JR九州から2011年に開業が予定されている九州・山陽直通新幹線の愛称が「さくら」に決定したと発表されました。

「さくら」という愛称は、昭和4年に「富士」とともに日本で最初の列車愛称として登場し、東京と九州を結ぶ寝台特急の愛称として使われていましたが、2005年に廃止されました。
その「さくら」が新大阪~鹿児島中央間を走る新幹線の愛称として復活するのです。

これ以上ないほどいい決定です。
「はやと」や「さつま」よりもふさわしいと思います。

これで九州では「さくら」と「つばめ」がともに走ることになります。
最新鋭の新幹線が日本最古の愛称で走るのです。
新鋭と伝統のすばらしい融合です。

こうなると3月に消滅してしまう「富士」の復活が待たれるところです。
長崎ルートに使われるのでしょうか?
どちらかというと「かもめ」の方があってる気がしますが。

さて、北陸新幹線の金沢延伸が2014年です。
こちらの愛称も気になるところです。
現行の「はくたか」がそのまま引き継がれるのか?それともかつて同様のルートで上野~金沢を結んでいた「白山」が復活するのでしょうか?もしくは全く別の新しい愛称になるかもしれません。
個人的には「はくたか」が一番いいと思うのですが、どう思いますか?