2012年7月3日火曜日

6月23日で東北新幹線が開業30周年、東北・上越新幹線の同時開業を阻んだ「最悪の山」、それは…

1982年6月23日、東北の人々の悲願を乗せて白地に緑のラインが鮮やかに彩られた新幹線が北へと走り始めた。あれから30年。2012年6月23日、東北新幹線が開業30周年を迎えた。1982年11月15日、東北新幹線の後を追う形で上越新幹線が開業した。実はこの2つの新幹線は同じ日に開業することが予定されていた。今回は幻に終わってしまった「東北・上越新幹線同時開業」にスポットを当ててみようと思う。

新幹線開業

東北・上越新幹線の開業から遡ること18年前の1964年10月1日。東京駅で盛大なセレモニーが開催されていた。東海道新幹線開業。日本初にして世界初の時速200キロ以上で走行する高速鉄道がこの日開業した。鉄道関係者、そして国民の期待と不安の中で走り始めた新幹線は、当初の不安を全て払拭する大成功を収めた。1975年には「ひかりは西へ」のキャッチコピーのもと、山陽新幹線が博多まで延伸、開業した。東京から西へ西へと伸びていった新幹線はその進路を北へと変える。

ひかりは北へ

1971年、「ひかりは北へ」のキャッチコピーのもと、東北・上越新幹線の工事が着工。当初の計画では1976年度の開業が目標とされた。しかし、中東情勢の悪化によるオイルショックが日本経済に高度経済成長の終焉という大打撃を与えた。新幹線の工事にもオイルショックの影響が影を落とし、建設費用の高騰という形でその姿をあらわすことになる。建設費用がかさむ中でも工事は進められた。

新幹線はまっすぐ進む

新幹線はその高速性ゆえ、なるべくカーブを少なくし直線であることが求められる。新幹線は、古くに建設された東海道新幹線ではカーブの半径が2500m以上、山陽新幹線以後に建設された新幹線では半径4000m以上とされている。道路と比較してみると、時速60キロ制限の一般道路ではカーブの半径が150m以上、時速100キロ制限の高速道路では半径460m以上と定められている。この点を見ただけでも新幹線がどれほど厳しい条件の中で建設されたかわかっていただけると思う。この厳しい条件が上越新幹線の建設の前に立ちはだかることになる。

東京と新潟の間には越後山脈を始めとする山々がそびえ立ち、なるべく直線でつなげようとするとどうしてもトンネルが多くなってしまうのである。結論を先に言うと、この山々が東北・上越新幹線の同時開業を阻んだのである。

世界一のトンネル

数ある上越新幹線のトンネルの中でも一番有名なのが上毛高原駅と越後湯沢駅の間の谷川岳を貫く大清水(だいしみず)トンネルだろう。全長22,221mのこのトンネルは貫通当時、世界一の長さを誇った。海底トンネルを除いた山岳トンネルとしては2000年に東北新幹線の一戸トンネルが開通するまでその座を守り通した世界有数のトンネルである。

谷川岳を貫くトンネルは上越線の清水トンネル(全長9,702m、開通1931年)、新清水トンネル(全長13,490m、開通1967年)に続き3本目となった。谷川岳の地質は「閃緑岩(せんりょくがん)」と呼ばれる硬い地質で、軟弱な地質に比べてトンネル工事がしやすいとされていたが、新清水トンネル建設工事の際には「山ハネ」といわれる現象に悩まされた。「山ハネ」とは、トンネルの上にそびえる谷川岳の重量による圧力でトンネルの壁面から硬い岩盤が剥離して飛んでくる現象である。

大清水トンネルは新清水トンネルよりもさらに深く、さらに長くなったため、谷川岳の圧力をより強く受けることになった。さらに湧き水の噴出も重なり工事は難渋を極めた。そして大清水トンネル建設の上で最悪の事態となった火災事故が起こってしまう。

1979年3月20日、貫通直後のトンネル内で掘削機械の解体作業が進められている中、保登野沢(ほどのさわ)工区で火災が発生。16名もの尊い犠牲を出してしまった。大清水トンネル建設工事での犠牲になった92名を祀った慰霊碑が湯沢町の保登野沢工区の坑口の入口近くに安置されている。こうした苦難を乗り越えて世界一のトンネルは完成したのである。

こうして見ると同時開業を阻んだのはこの大清水トンネルかと思われるかもしれないが、同時開業を阻んだのはこのトンネルではない。上越新幹線建設には「最悪の山」が待ち構えていたのである。

最悪の山

中山トンネル。これが最悪の山と悪戦苦闘した末に建設された日本のトンネル建設史上に残るトンネルの名前である。

全長14,857m。新潟から新幹線に乗車した場合、上毛高原駅を発車してすぐにこのトンネルの入り口が口を開けている。トンネルに入ってからしばらくすると新幹線はブレーキをかけて減速し始める。もちろん駅が近づいてきて停車するために減速しているわけではない。

しばらく減速が続いた後、新幹線の車体が右に傾き始める。しばらくするとその傾きが収まり、新幹線は再度、加速をはじめる。何故このようなことが起こるのか。それはこのトンネルの中に新幹線としては異例の急カーブがあるからである。

先に新幹線のカーブは半径が4000m以上で建設されていると述べたが、この中山トンネルには半径1500mの新幹線の規格から外れた急カーブが存在しているのだ。時速240キロで駆け抜ける新幹線がこのトンネルでは急カーブを曲がるために時速160キロまで減速を強いられる。

中山トンネルは、1972年に着工している。着工前の準備期間はわずか10ヶ月とあまりにも短い。工事前の地質調査もそこそこに工事が始まってしまった。この一点を見ただけでもいかに新幹線の建設が急がれていたかがわかる。

1972年着工というのは上越新幹線の数々のトンネルの中でも最初期の着工である。最初に掘り始めたトンネルが最後まで残ってしまったのである。結果論になってしまうが、事前に十分な地質調査が行われていたら、ここまでの難工事にはならなかったかもしれない。

中山トンネルは子持山(こもちやま)と小野子山(おのこやま)という山を貫く形で建設されている。掘削が始まってから判明したことであるが、この山は山の中に地下水を満々と湛えた巨大な水がめのようになっていたのである。掘削したその先から地下水が溢れだして止まらない。地下水を抜く作業や水が噴き出さないようにトンネル内部を固める作業など、さまざまな対策が取られた。それでも大きな出水事故が2回も起きてしまったのである。

最初の大きな出水事故は1979年3月18日に四方木(しほうぎ)工区というところで起こった。21時40分頃、毎分2トン程度だった湧水が突然、毎分80トンという濁流へと変わった。毎分80トン、つまり1秒間に1.3トンもの水が溢れだしてきたのである。一般的なバスタブの容量が180リットルであるから、一秒間にバスタブにして約7.5杯分もの水の量である。ただちに対策が取られたが出水量の方が勝り、トンネル内の変電施設まで浸水してしまった。

これにより地上に脱出するためのエレベータが停止してしまい、作業員はエレベータで迫りくる水の恐怖に怯えながら救助を待った。出水から約2時間後、地上からの送電が復帰。エレベータが動き出した。作業員はまさに九死に一生を得る状態であった。この出水事故で四方木工区は水没。復旧までに半年を要することになる。

この出水事故により四方木工区が出水の危険性がかなり高い工区であることが再認識されることになる。ここで鉄建公団総裁仁杉巌(のちの第9代国鉄総裁)は重大な決断を下す。「トンネル本坑を曲げる」。着工後にトンネル本坑のルートを変更することは前代未聞のことであったが、本坑工事がなかなか進んでいないことや東北新幹線との同時開業にこれ以上の工事の遅れが許されない状況になっていることから速やかに変更の手続きが取られた。

この時のルート変更では比較的地質が良好な東側に約86mずらしたルートが採用された。このルートはカーブの半径が4000mに設定され、速度制限を受けないルートであった。ここで「あれ?」と思われた方もいるのではないかと思う。中山トンネルには半径1500mの急カーブがあると述べた。そう、このルートは幻のルートとなってしまったのである。

ルート変更決定後、各工区では出水時この遅れを取り返すべく急ピッチで作業が進められていた。作業のための迂回坑の掘削が進められ、隣接した高山工区とつながり、本坑の掘削作業がようやく出来るとなった時に悪夢が再び訪れた。

1980年3月7日、またしても四方木工区で毎分40トンの異常出水が発生、前回の出水とは違い隣接する高山工区と迂回坑でつながっていたためそちらへも水が流れこんでいった。出水からしばらくは両工区に設置されたポンプの処理能力の範囲内であったため水没は免れていたが、3月9日にトンネル内で地盤の崩壊が起こり出水量は毎分110トンに増加。ポンプの処理能力を超えた湧き水は四方木工区と高山工区を満たしていった。2つの工区は完全に水没。前回の異常出水から1年、四方木工区の工事再開からわずか半年での悪夢に工事関係者の落胆は計り知れないものがあった。この時、東北新幹線と上越新幹線の同時開業は夢と消えた。

ここに至って鉄建公団総裁仁杉巌は再度、決断を迫られることになる。東北新幹線の開業は1982年6月23日と決定している。上越新幹線の開業が大きく遅れるわけには行かない。しかし、このままではトンネルの開通すらおぼつかない。ここでくだされた決断は次のようなものである。1.東側に曲げたルートをさらに東へ約80m移し、出水地帯を回避する。2.上越新幹線の開業は半年遅らせる。これにより中山トンネルには速度制限時速160キロのカーブの半径が1,500mという急カーブがあらわれ、永遠にその傷跡を残すことになった。

中山トンネルについて概要を述べるつもりだったが、それでもこれほど長い記述になってしまった。それほど上越新幹線での中山トンネルの存在が大きいものであると思っていただければ幸いである。なお、中山トンネルに関する記述の多くは『上越新幹線物語1979―中山トンネルスピードダウンの謎』(交通新聞社新書)によるものが大きい。この本は当時、鉄建公団でトンネル工事の指揮を執っていた北川修三氏によって書かれたもので、中山トンネル建設工事での悪戦苦闘、開通にかける情熱が詳細に書き込まれている。上越新幹線に興味をお持ちの方にはぜひ読んでいただきたい一冊である。

1982年6月23日、東北新幹線開業。それから遅れること半年。1982年11月15日、上越新幹線が無事開業した。今年で開業30周年。同時開業の夢はかなわなかったものの、2つの新幹線は東日本の発展に大きく貢献することになる。この2つの新幹線の開業に血と汗と涙を流しながら働いた人たちがいたことを少しでも知っていただければ幸いである。

(2012.7.3 藤井大輔&芳輔の鉄道コラム「鐵道双見」に投稿した内容を掲載)

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